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カテゴリーアーカイブ: エッセイ

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スケッチ 横川浜の河川敷公園

大呂俳句会 投稿日:2014年10月27日 作成者: dvx223272014年10月27日

kasennsiki
 先日、新潟市秋葉区小須戸横川浜の河川敷公園で吟行したのですが、人工的な場所では風情がなく、なかなか俳句が浮かびません。そこで、その時の様子を、スケッチ風に描いて、そこから何か俳句のヒントになるようなものが生まれてこないものかと試してみました。

——-

 その公園は信濃川の河川敷にあった。周囲四百メートルグランド三つ四つほどの広さだろうか。地面のほとんどは黄色くなりかけている芝生で覆われ、土のままの遊歩道が公園の外郭を縁取っていた。

 小鳥来る広々として河川敷
 枯芝や心もとなきわれの影
 枯芝に雀の遊ぶ日和かな

 柳の巨木が三本、それぞれ百メートルほどの感覚で立っていた。晩秋というのにまだ青々と繁って、芝生の上に淡い影を落としていた。川風があれば柳の葉はゆさゆさと揺れるのだろうが、ほとんど無風なので柳はただ垂れ下がっているだけだった。

 やはらかく芝に影して秋柳
 大いなる樹も石ころも秋の影

 よい日和で、遠くの低い山並みがくっきりと見えていた、山にある雑木一本一本が見分けられるほど空気が澄んでいた。低い山並の向こうには粟が岳がそびえていたが、こちらは少しぼんやりとした色に浮かんでいた。

 遠山や紅葉してゐる五六本

 河川敷公園に人影はまばらで、スケートボードで遊んでいる若者が二人、遊歩道を散歩している人が一人、あとは、公園を管理している人四五人がのんびりと作業していた。そのうちの一人は芝刈り機に水をかけている。

 よく晴れてゐて深閑と秋の苑
 芝刈機に水を浴びせて冬支度

 公園の芝生を踏んで、信濃川の岸辺に向かったが、信濃川と公園の間にはうっそうとした葎があって、岸辺まで行くことができない。葎には大きな川柳の木が数十本あって、それに葛がびっしりと絡まっていた。葎のところどころに背高泡立ち草がびっしりと生えていて、黄金色の花が今を盛りと日に輝いていた。鵯がぎーぎーと鳴きながら川柳から川柳に飛び移っていた。

 鵯が葎の中を飛びだせる
 このあたり葛と泡立草ばかり

 山に近いあたりにはいくつかの浮雲が見られたが、空は美しく澄み渡り、一機のヘリコプターが西から来てゆっくりと東の方に去っていった。———

 浮雲の三つ四つ五つ秋の山
 秋空にヘリコプターが吸はれ行く

(m)

エッセイ 思い出の蕎麦

大呂俳句会 投稿日:2014年10月25日 作成者: dvx223272014年10月25日

sobauti
 その店の裏手には阿賀野川が流れ、それをはさんで麒麟山が聳える。切り立った岩肌の冬紅葉が青空に美しく映えていたが、小春日和というにはいささか風が冷たい。麒麟山公園の桜や欅はすっかり葉を落し、晴れていてもどこか蕭条とした雰囲気が漂う。いつ雪が降ってもおかしくない季節なのだ。
 店の名は塩屋橘(しおやたちばな)、昔、塩を商っていたのだろうか。紺暖簾に白抜きの大きな文字が人目を引く。家の構えは立派で、古い蔵屋敷を店に作り変えたらしい。
 のぽりもなければ看板も掲げていないので、何か食べさせてくれる店と察しはつくが、何の店かはわからない。出てくる人に尋ねると蕎麦屋だという。
 磐越道も会津に近いこのあたりは、蕎麦のうまい店が多いらしいのだが、期待して入るとたいていはがっかりさせられる。それでも、お腹も空いていたし、他によさそうな店も見当たらないので、その大仰な暖簾をくぐることにした。
 注文したのはもり蕎麦。蕎麦を吟味するのならかけ蕎麦よりもつけ汁でいただくもりやざるであろう。かけ蕎麦は醤油味に蕎麦がつかっている分だけ、蕎麦本来の味が隠されてしまう。
 ほどなく、注文したもり蕎麦がやってきた。一口いただくと、ほのかに蕎麦の香りがする、腰が強く風味が逃げていないのは、打ち立ての蕎麦をほんの一瞬でゆで上げるせいであろう。つけ汁も控えめで、蕎麦の脇役をわきまえていた。
 美味しい蕎麦に出会うと、食いたりない気分になるが、まさかもう一枚というわけにもゆかない。心をのこして店を出たが、そういう余韻のある食べ方がなによりの馳走なのかもしれない。

 麒麟山よき新蕎麦を食はせけり

 僥倖というにはちょっと大げさかもしれないが、いい蕎麦にめぐり合うことがめったにないだけに、思わぬ拾い物をしたような気になる。

 十年ほど前になるが、福島県奥会津の昭和村でおいしい蕎麦に出会ったことがある。
 蕎麦を食べたい、というと、その人は、
「蕎麦は打つが、食堂はやっていない」
とぶっきらぼうに応えた。「うちの蕎麦は、ここから二キロばかり離れた昭和温泉のしらかば荘で食べさせる」とのこと。他に食堂も見当たらないので、その温泉まで引き返して、ぶっきらぼうさんが打った蕎麦をいただいた。僕はそれまで、蕎麦といえば駅の立ち蕎麦か乾麺くらいしか知らない、言わば蕎麦音痴だった。その時も蕎麦の味がどうのこうのというより、とにかく腹を満たせればいい、という思いであった。
 ぶっきらぼうさんが打った蕎麦を私は甘いと思った。勿論、お菓子のような甘さではない。蕎麦粉それ自体が秘めている風味に甘みを感じたのだった。それが真の意味で、四十五年ほど生きてきた私と、蕎麦とのはじめての出会いだった。そのときの私は、蕎麦ってこんなにおいしいものだったのか、という新鮮な驚きに襲われていた。
 そんなことがあってから年に数回はぶっきらぼうさんの蕎麦を僕の住んでいる新潟まで送ってもらうようになった。ある年の暮れに電話で蕎麦を注文したところ、
「大雪で蕎麦を打つどころでない」
とやんわり断られるようなこともあった。よくよく欲のないところをみると、半分は趣味で蕎麦打ちをやっていたのかもしれない。昭和村の片田舎で蕎麦を打っているよりも、都会に出て小さな店でもを出せば繁盛間違いないと思わせるほどの蕎麦であったが、そんなことには無頓着がゆえにまたおいしい蕎麦を打てたのかもしれない。
そのぶっきらぼうさんも、数年前にこの世を去っている。電話で蕎麦を注文したところ、
「家内です」と奥さんが出て「主人は死んじゃいました」とこちらもけっこうそっけないあしらい。ぶっきらぼうさんは、七十歳を少し出たくらいの風貌だったので、まだまだいい蕎麦が打てたはずだった。ぶっきらぼうさんの名前は「鈴仁」さん、鈴木なんとかというのだろうが、正確な名前は分からない。

 そのひとの粋が打たせて走り蕎麦

 鈴仁さんの蕎麦にはちょっと適わないが、それでも旨い塩屋橘の蕎麦、帰りには、酒の肴にはもってこいの津川名物、鰊の麹漬けをたっぷり買い込んで、鄙びた温泉の町を後にした。(m_大呂6号から転載)

雑感

大呂俳句会 投稿日:2014年9月6日 作成者: dvx223272014年9月6日

matutake
 季語は、感性の申し合わせです。どのような季語も感性の公約数をいくつか持っています。
 たとえば「松茸」、この季語の懐に入ると、いくつかの関連した言葉が見えてきます。香り、高価、外国産、七厘、丹波、などなど。なかでも「香り」は最大公約数とも言える共通の感性でしょう。言葉を変えていえば、「松茸」という季語は、最初から「香り」を放っているといえます。最初から「香り」を放っているわけですから、松茸を詠むときに、さらに「香り」に触れることはたいていの場合ただごとになってしまいます。

 七輪の上で松茸香を放つ
 香の高き丹波松茸いただきぬ

 どちらも私が作った句ですが、何がいけないのかもうお気づきでしょう。「松茸」という季語が最初から持っていて誰もが了解している属性を、句に詠み込んではだめということです。
 もちろん例外もあります。たとえば、「天花粉」。これは「子供」とワンセットのようなもので、「子」が入らないと句にしにくいところもあります。ですが、たいていの場合、この公約数を避けながら句を詠むほうが無難でしょう。最初のうちは、最大公約数はだめと思って句を作るほうがいいでしょう。
 思いつく季語とその公約数をいくつか。

虫-闇
夜長-読書
湯豆腐-昆布だし
風鈴-風
白玉‐母
稲妻-闇
などなど

 芭蕉の頃は公約数でなかったものが、多くの人が句を読んでいるうちに、いつの間にかその季語の属性として定着する、それが俳句の宿命かもしれません。新しすぎてもだめ。かといって先人が繰り返し詠んだ事柄も避けるべき。どう隘路を切り開いていけばいいのか。——-
公約数を詠んでは失敗することが多いという話でした。(m) 

際_きわ 

大呂俳句会 投稿日:2014年8月30日 作成者: dvx223272014年8月30日

 huurin

「際(きわ)」を辞書で引くと

1 あと少しで別のものになろうとするぎりぎりのところ。境目。「生え際」「波打際」
2 ある物にきわめて接近した所。すぐそば。「壁際」「山際」「窓際」
3 物事がそうなろうとするまさにそのとき。「今わの際」「入り際」「死に際」「往生際」
4 物事の窮まるところ。限界。際限。

 とある。1と2は空間の「際」であり3は時間の「際」4はひとの心のなかの「際」であろう。いずれにしても、際はものごとの輪郭であり、ものごとのけじめである。この「際」をどう処すかでその人の佇まひもおのずと決まってくるというもの。物事に執着すれば「往生際が悪い」ということになるし、死期にのぞんでうろたえれば「死に際が悪い」ということになる。反対に「際」を潔くすればその形は美しくその心は爽やかである。
 俳句もまた、この「際」がたいせつである。ひとつは輪郭を感じさせる「際」の俳句であり、ひとつは執着を離れた「際」の俳句である。

 たとえば

 今朝秋の伊豆の見えたる机かな 長谷川櫂

 などは、心の輪郭がくっきりと現れた、濁りのない俳句といってもいいであろう。俳句に余計なことを託そうとしない、五七五に現れた文字だけで完結しようとする俳句こそ、まさに「際」のある俳句、輪郭のある俳句である。俳句は余韻が大切とされるが、余韻は「さてこの句は何が言いたいのだろう」と思考を立ち止まらせることではない。余韻とは一句の完結を見たのちに静かに心に響いてくるものである。逆に言えば、読み手のが一句を完結できなければ余韻は生まれてこないともいえる。

 くろがねの秋の風鈴なりにけり 飯田蛇笏

 この句も切字「けり」によって完結を見ることで「際」立っている俳句である。(m)

大呂吟行会_山古志の牛の角突き

大呂俳句会 投稿日:2014年6月9日 作成者: dvx223272014年6月9日

 闘牛は春の季語ですが、新潟県の山古志地区では冬場を除いた各季節で角突き行事が行われています。
 6月8日は梅雨の真っ最中で、日本中が長雨にたたられていましたが、さいわい、山古志では雲間から日が差しこむような天気で、暑くも寒くもないという按配、吟行にはもってこいの日和でした。

 中越地震から10年目に当たる今年は、全国各地から闘牛のつわものが参集しての角突き大会で、大会を前に闘牛サミットの会議も行われたとのことでした。

 大会の無事を祈念して、まず、角突きの会場に浄めの塩と清酒がまかれました。
 緒戦は沖縄から来た闘牛同士のぶつかり合い、小山のような牛がどすんと鈍い音を立てて頭をぶつけ合います。人間ならば頭の鉢が割れてしまいそうですが、闘牛はひるむこともなく相手に角をつきたてようとします。

 5番6番と闘いが進むと、いよいよ強豪の出番、闘いも激しさを増します。牛の激しい突進をなだめようとした勢子(牛の引き回し役)が牛の頭に当たって肩を脱臼するというアクシデントも起きました。

 棚田の緑が美しい山古志の初夏の一日でした。

【吟行句】
緑陰に角突きの牛繋がるる
山古志に角突の夏来たりけり
角突きの牛のこゑあり夏木立
男衆も獣のごとく牛角力

春待つ心

大呂俳句会 投稿日:2014年1月25日 作成者: dvx223272014年1月25日

isu
 「冬を待つ」「夏を待つ」という季語はない。「秋を待つ」という季語はあるが、あまりかえりみられる季語ではなく、どの歳時記をみても例句は少ない。やはり「春を待つ」なのだ。草木が芽吹き獣が冬眠から覚め鳥や爬虫類が繁殖期を迎えて万物の動きが俄かに活発になる季節、それが春である。その春を待ち焦がれる思いが晩冬の季語「春待つ」である。

一脚の椅子に春待つ心あり  長谷川櫂

 句の「一脚の椅子」、暖かくなるとそれに座って執筆でもするのだろうか。冬の間はもっぱら炬燵というところ。「一脚の椅子」にもそれに対する「机」にも机の上の「ペン」にも、そして、その辺に転がる石くれにも春待つ心があるという一句かもしれない。(松)

蛍

大呂俳句会 投稿日:2013年6月28日 作成者: dvx223272013年6月28日

hotaru
  蛍を見に行った。夏至も過ぎたばかりで、いざ待つとなると中々暗くならない。蕎麦屋で腹ごしらえをして、山城があった川沿いの道を登ってゆく。

 歩いているうちに一つ二つと光が浮び始めた。何となく人も増え始める。誰もがそうなのだが、蛍を見ている人の多くは無言だ。木立の間からせせらぎが聞こえてくる。蛍にとっては自分たちの子孫を残すための自然な営なのだが、月の光や星の光など、人智の及ばぬものが発する光には心をひきつけて止まない何かがある。人はどれだけの思いをあの光に託して来たのか。歌人が歌を詠み、詩人が詩を作り、俳人が句をつくってきた。その人の思いの深さは蛍の闇よりも深い。

 蛍に心奪われているうち、帰りの時間が迫ってきた。友人が車で近くの駅まで送ってくれるという。もう時間ぎりぎりだ。

 山の端にはまだ、うっすらと明るさが残っている。遥まで続く青田の上から大きな真っ赤な月が昇ってきた。そんな月に驚きながら車は真つ暗な道を走り続ける。駅前の信号を青で抜け、やっと間に合った駅には改札らしきものがあるばかり。切符を買う窓口などとうに閉まり、人気もない。一分と待たぬ間に電車がやって来た。

 時間を忘れて蛍を見入っていた、熱に浮かされたような現実から、いきなり駅まで車を飛ばすというリアルな現実に、頭がくらくらとして来る。これは急いでホームの階段を駆け上がったせいばかりではあるまい。乗り込んだ古い車両は軋みつつ真っ暗な青田の中を走っている。月はまだ低く赤く車窓に張り付いたようにずっと付いて来る。

 蛍も赤い大きな月も、現実から忘れられたような古い電車も現世のことでありながら、何だか夢の中のことのように思われた。(立)

蓴菜の花

大呂俳句会 投稿日:2013年6月27日 作成者: dvx223272013年6月27日

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 先日行なった蓴菜吟行、気の良い地元の方から声をかけていただき、採り残した蓴菜を摘ませていただきました。この時、気になった若芽の脇にあった花の莟。それは一ミリ位の紅の粒です。いったいどんな花が咲くのだろう。多分あまり知られてはいないのでは?そう思い、蓴菜の花を見に。

 蓴菜採に使った筏はもう、ばらばらにして池の周りに積んであります。誰もいないと思った蓴菜池ですが、2・3人がカメラを構えトンボなどを撮影中。     

 虫食いの葉、少し黄色い葉が一面に池を覆っています。蓴菜の葉そのものは、それ程美しいものではありませでした。その葉の上に赤い小さな花らしきもの。それにしてもよく見えません。望遠でやっと撮影しパソコンでじっくりと拝見です。

 この沼は江戸時代からの地形と水の流れが残り、貴重な生き物も多く生息していると知りました。八丁トンボ、珍しい金色をした糸トンボ、美しいあお蛙、よく目を凝らせば見知らぬ生物が沢山います。そしてこの度、徳昌寺の参道を挟んでもう一つ池があることを知りました。こちらは木々が池にせり出し少し神秘的です。イメージとしては沼のようですが、何処からか水の音が聞こえてきます。曇り空に牛蛙の眠そうな声が響いていました。(立)

雛祭

大呂俳句会 投稿日:2013年3月3日 作成者: dvx223272013年3月3日

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 今日は雛祭、北国では大荒れの天気である。北海道の中標津では、雪に閉じ込められた車中で親子四人が遺体で見つかった。一酸化炭素中毒とのこと、傷ましいかぎりである。
 
 みづうみの波低からず雛祭  片山由美子
 山の雪すでにまばゆし雛祭  相馬遷子
 沖かけて白波さわぐ雛かな  飴山實
 海に降る雪美しや雛飾る  小林康治
 雛の日のみづうみまでの雪を掻く  山本洋子
 雛の日の都うづめし深雪かな  鈴木花蓑
 雛の灯を消せば近づく雪嶺かな  本宮哲郎
 雛まつりしづかなる日の海荒るる  阿部みどり女

 雛祭と天候の荒れを取り合わせた俳句も多い。

 一塊の雪もなくなり雛あられ 阿部みどり女

 のような雛祭であってほしいのだが。(kinuta)

小鳥

大呂俳句会 投稿日:2012年10月27日 作成者: dvx223272012年10月27日

 小鳥来るは俳句の季語で「秋、日本に渡って来る鳥や、山地から人里に降りてくる小鳥たちのことをいう」とある。
 今日その小鳥が家に入ってきた。よい天気なので玄関を開けて掃除をし、そのままにしていたら何か影のようなものが壁をよぎったのだ。小鳥といえども野生は野生だ。家中を飛び回り慌てて壁や天井にぶつかりそうになる。追い出そうとすれば小鳥はさらに慌てるばかり。
 掃除の時は別の部屋に閉じ込めておく猫達は、何かを察したらしく気配を窺っている。「さあ、困った。」猫が見つけたら大変。狩猟本能そのままに、家は修羅場と化すだろう。
 考えた末、頭上を飛び交う小鳥をかいくぐり、窓を開けて小鳥の入っている部屋のドアを閉めた。数時間後、ドアを開けるとそこには小鳥の姿はなかったが、糞で壁や畳がところどころ汚れていた。まあ、猫も小鳥も無事にそれぞれの居場所に戻って一安心だ。驚きつつも小鳥来るを実感した?一日だった。(立)

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