蛍

蛍を見に行った。夏至も過ぎたばかりで、いざ待つとなると中々暗くならない。蕎麦屋で腹ごしらえをして、山城があった川沿いの道を登ってゆく。
歩いているうちに一つ二つと光が浮び始めた。何となく人も増え始める。誰もがそうなのだが、蛍を見ている人の多くは無言だ。木立の間からせせらぎが聞こえてくる。蛍にとっては自分たちの子孫を残すための自然な営なのだが、月の光や星の光など、人智の及ばぬものが発する光には心をひきつけて止まない何かがある。人はどれだけの思いをあの光に託して来たのか。歌人が歌を詠み、詩人が詩を作り、俳人が句をつくってきた。その人の思いの深さは蛍の闇よりも深い。
蛍に心奪われているうち、帰りの時間が迫ってきた。友人が車で近くの駅まで送ってくれるという。もう時間ぎりぎりだ。
山の端にはまだ、うっすらと明るさが残っている。遥まで続く青田の上から大きな真っ赤な月が昇ってきた。そんな月に驚きながら車は真つ暗な道を走り続ける。駅前の信号を青で抜け、やっと間に合った駅には改札らしきものがあるばかり。切符を買う窓口などとうに閉まり、人気もない。一分と待たぬ間に電車がやって来た。
時間を忘れて蛍を見入っていた、熱に浮かされたような現実から、いきなり駅まで車を飛ばすというリアルな現実に、頭がくらくらとして来る。これは急いでホームの階段を駆け上がったせいばかりではあるまい。乗り込んだ古い車両は軋みつつ真っ暗な青田の中を走っている。月はまだ低く赤く車窓に張り付いたようにずっと付いて来る。
蛍も赤い大きな月も、現実から忘れられたような古い電車も現世のことでありながら、何だか夢の中のことのように思われた。(立)
