
-
Primary Widget Area
-
This theme has been designed to be used with sidebars. This message will no
longer be displayed after you add at least one widget to the Primary Widget Area
using the Appearance->Widgets control panel.
- ログイン
「水にさす影」イコール「水羊羹」という喩である。「水にさす影のような水羊羹」ならば直喩で分かりやすいが、「水にさす影」をいきなり切り分けるのだ。布の覆いをさっと取って水羊羹がいきなり現れるという手品のような一句。暗喩でもなければ直喩でもない不思議な喩法がこの句にはある。『虚空』(kinuta)
雪が解けるとそれを待っていたかのように伸び出すのが、蕨や薇、独活、蓬、鳥足、うるい、こごみなどの山菜。中でも収穫が多いのは薇と蕨、どちらもシダ植物で、都会の人にはその二つを判別できない人も多いようだ。
薇はその先端部がくるくるとまるまっており、新芽のころは全体が綿毛で覆われている。
ぜんまいののの字ばかりの寂光土 川端茅舎
茅舎の句の「のの字」は薇の先端部のことである。
収穫したものは天日にさらして、もみほぐしながら水分を抜き、からからに渇いた状態で保存する。春に採れるので春の季語になっているが、雪国ではむしろお盆や正月の料理に具されることが多い。
一方、蕨はあくの強い山菜で、採ってきたものは木灰や重曹などであく抜きをして食す。塩漬けで保存したりもするが、薇と違って蕨は旬のものをいただくのが一番、糸を引くほどのぬめりが特徴の山菜である。
めぐる日や指の染むまでわらび折る 白雄
白雄の句、指が染むほどの収穫があったのだろう。指先が黒くなるほどあくが強いのである。乳牛が牧草に混じった蕨を食べると乳の出が悪くなるというほどのあくである。
薇は煮物、蕨はおひたしにするのが一番、酒の肴にいいのは、どちらかといえば蕨であろうか。(kinuta)
木蓮の花あをざめし夕べかな りつ
純白の花びらに、青の印象を重ね合わせた一句。虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」に通じる。
山吹の導くままに地蔵堂 千吉
山吹は導かない。「山吹の花に添うてや地蔵堂」
散り急ぐ花の乱れや風の道 風花
「散り急ぐ」も「花の乱れ」も同じような意味。「風の道」がさらにそれを理屈づける。秋桜子の「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々」のように読みたい。「○○に花散り急ぐ大伽藍」たとえば「天空へ花散り急ぐ大伽藍」
川に沿ふ道うねうねと雨蛙 みいこ
下五に「蛙かな」と置きたい。「川に沿ふ道うねうねと蛙かな」「うねうねと川に沿ひゆく蛙かな」もちろん、川に沿いゆくのは作者。
白木蓮耀く村を通りけり 風花
どんな風に、何が輝いているのかが大切。白木蓮が輝いているのなら、「高々と白木蓮のかがよへる」そうでないのなら、「白木蓮村ぢゆうの水かがよへる」
その中に教会ひとつ麦の秋 みづほ
「麦の秋」は時候。本来なら「その中に教会ひとつ麦畑」でなければならないのだが、「麦の秋」の方が句としては雰囲気があるから俳句は不思議。
もやもやと年寄遊ぶ桜かな しをり
「もやもや」がよくない。年寄を讃え、桜を讃えるのが俳句。「八十の男女あそべる桜かな」
麦の秋遠く聞こゆる暮の鐘 ひろし
「暮の鐘」があいまい。「梵鐘の遠く響ける麦の秋」
大粒の雨がこぼれて朴の花 みづほ
急に湧いてきた黒雲、一滴の大粒の雨が頬を打つ。
筍や由緒正しき越境者 風花
「由緒正しき越境者」が意味不明。「隣の家の筍が塀を越えて生えてきた」と斟酌できないわけでもないが、俳句は人に考えさせてはだめ、一読すっと頭に入る俳句を。
炊きたての飯かがやける立夏かな 百合
「飯かがやける」がおもしろい。
その重み小枝傾ぐや玉椿 しをり
もっと整理したいところ。「よべの雨枝たはませて玉椿」
きらきらと水は光りて雲雀かな りつ
「きらきらと水は光りて」に一工夫。「きらきらと水急ぎゆく雲雀かな」もっといい季語はないか?
なみなみと水をたたへて代田かな みいこ
「なみなみ水をたたへて」が安易。「どこそこの水をたたへて代田かな」「月山」とか「白山」とか。「たたへて」は、「称えて」でも「湛えて」でもOK。
(kinuta)
伽羅蕗を作るには、長時間の煮炊きに耐える固めの蕗を使うのが大切。普通の蕗料理では皮を剥いてから煮炊きをするが、伽羅蕗の場合は皮を剥かない。皮を剥いた柔らかい蕗ではとろとろになってしまうのだ。葉が虫に食われるころの蕗がちょうどよい。梅雨に入る少し前くらいの山の蕗である。句の伽羅蕗、赤唐辛子を乾燥させた鷹の爪をたくさん入れて炊かれたものだろう。「滅法辛い」がゆえにうまいのである。『川端茅舍句集』(kinuta)

古い手紙を整理していたら、画家のTさんに猫を譲った時のものが出てきた。せっかく頂いたのに、交通事故でなくなってしまったという詫び状で、今まで飼った猫達と同様庭に埋葬したというものだった。冥界入りした新参者の猫を思いやる気持ちが伝わってくる内容で、折にふれ時にふれ庭を見ては心を寄せるTさん、亡くなった猫たちも幸せだろうと思った。このTさん自信も猫たちの傍で過ごすことが出来て幸せなはずだ。
今、原発でふるさとを追われた人々は生まれ育った地を離れ、先祖の墓に手を合わすことも出来ない。馴染んだ地を離れるという事は、今まで築いてきた時間を奪われる事だ。目前にありながら踏み入る事の出来ないふるさと。被災した人が言っていた。「福島の風土が自分を育ててくれた、風土とは風と土です。他の土地をもらってもそれは違う」と。そして「育った家はただ広く寒い家だった、雪が降れば戸の隙間から雪が吹き込むそんな家だった。でも戻りたい」と。
先日越した家には、沢山の樹木が植えられていて、この木々を育てた老婦人は山椒の脇にでた、小さな苗木を引き抜き新しい住まいに持って行った。木々とともに育てた多くの思い出を置いてゆかざるを得ない気持ちが、ずっと此処に住みたかったという言葉に表れていた。
一年前、連続して飼い猫を亡くした。離婚して住み慣れた家を離れるに当たり、奉書紙に包んでそれらの骨を粉々にして撒いた。彼らと走り回った裏山に、中庭に、池の傍に畑に。この季節にはどの場所が好みか、この時間にはどの辺りに居るか考えられる全ての場所に少しづつ撒いた。その家では何匹もの犬や猫を飼った。皆、庭に埋められ仲良く過ごしているに違いない。ただ彼らに申し訳ないのは先のTさんのように、今は傍で過ごしてやれないことだ。柱についている爪の傷跡も、得意気になって駆け登った梅の木も今は思い出の中にしかない。
俳句は、五七五の器を持っています。これは、俳句の約束事のなかでもっとも大切な条件の一つ。山頭火や尾崎放哉のようにこれにこだわらない人もいるので絶対的なものとは言えないのですが、五七五のこのここちよい韻律なしで、俳句がここまで多くの人に愛される文芸となりえたかどうかは疑問です。
五七五の器、たしかに心地よいのですが、これが容れものであるだけにけっこうやっかいなものでもあります。人が衣服を身につけるのと同様でゆったりと着こなしている人もいれば、肥りすぎて窮屈に着こなしている人もいます。衣服ならば、肥れば大きなものに変えればいいのですが、俳句の器は約束事、大きさを変えることはできません。
膝に来てはしやぎて眠り日焼けの児
星座見つ夜店に亡母との日遥か
また今日も雨空うんざり釣鐘草
いずれも、窮屈な句ばかり。加えて言葉が途切れ途切れです。なぜ、こんな句ができてしまうのか。五七五に言葉を入れようとするからです。さながら、ジグゾーパズルのように、切れ切れの言葉をはめ込もうとする。これがよくないのです。言葉ははめ込まない。じゃあどうすればいいのか。切りとることです。普通の散文、まっとうな意味の通じる散文を、五七、あるいは七五で切り取って、そこに季語を添える。もちろん切り取る刃物はなまくらであっては何にもなりません。鋭く切りとる。これが大切です。
手元に「四季のうた」(長谷川櫂著)という詩歌の鑑賞の本があります。試しにそこの散文からいくつか切りとってみましょう。
「あっという間に日暮れてしまう」(引用文)
→あつといふ間の日暮かな(切取った形)
→柿干してあつといふ間の日暮かな(俳句へ)
「人の心のうつろいやすさよ」(引用文)
→心移ろひやすきかな(切取った形)
→白地着て心移ろひやすきかな(俳句へ)
「夜のうちに打ち上げられた桜貝がちりしいている。」(引用文)
→散り敷いてゐる桜貝(切取った形)
→松風に散り敷いてゐる桜貝(俳句へ)
「物干台に出て籠から放った雲雀が」(引用文)
→籠から放つ雲雀かな(切取った形)
→耀きへ籠から放つ雲雀かな(俳句へ)
「群れて泳ぐさまは海中を舞う花びらのよう。」(引用文)
→わたなかを花のごとくに(切取った形)
→わたなかを花のごとくに桜鯛(俳句へ)
こんな方法で句を作れといっているのではありません。句の基本は美しい散文にあるということです。まず、すっきりとした正確な散文(日本語)ありき。それを鋭利に切りとって、季語を添える。これが、取り合わせの俳句です。
くれぐれも五七五に言葉をはめこまない。(kinuta)
囀の楽しい季節。鳥の名はわからないが、いろいろな鳥の鳴き声を聞いていると心がはずむ。恋が成就して、あきらかに今年の子とわかる鳥が庭を動き回っているのを、毎年ひやひやとして眺めていた。飛び立つ時黄色い色がひらひらと見えるカワラヒワは、親鳥より一回り小さい。ほっそりとしたウグイスやセキレイ、ギイーギイーとやかましいヒヨの中にも今年生まれた子がまじっている。スズメの子もいる。まだこの世に経験の浅いそれらの雛をねらって猫が木陰からじっと様子を伺う。あきらかに獲物を狙っている野生動物の姿。伸びきってストーブの前で寝ていた姿とは大違いだ。ある時、木陰からスズメをねらっているのを見て、慌てて声をかけたその一瞬、無事逃げたと思ったスズメは無残にも猫にくわえられている。猫は地にいるスズメを狙ったのではなくスズメの飛び立つその先を見据えて、鳥に飛びかかったのだ。生まれ持った能力とはいえ、驚くばかりだ。家飼の猫も外に出たスキに鳥を捕らえ、自慢気に飼い主に擦り寄ってくる。誰が教えた訳ではないが、これが本能なのだろう。
猫に捉えられるという自然の摂理によって落とす命もあれば、今年生まれた多くの仔猫が身勝手な人の心によって保健所に引きとられ処分されるという現実もある。(立)

畦は田のしきりである。畦をしっかりとこしらえることで、水の管理が容易になる。また、田の中に通路を通すことで田植や草取りなどの田作業もやりやすくなる。句の「畦走りけり」は、どこまでも続くまっすぐな畦ということだろう。今日塗ったばかりの畦は水分をたっぷり含んでてらてらしている。月の光がそれに反射して、まるで流れをなすかのように見えるのかもしれない。『傷痕』(kinuta)

四月から始まったネット投句で特選になった句。「すつきりと一人暮らしの冷蔵庫」ならば、「すっきり」は「冷蔵庫」を修飾して、「すっきりとした冷蔵庫」ということになる。中七に「や」と切字を入れたことで、「すっきり」は「ひとり暮らし」の方を修飾し、「すっきりとした一人暮らし」という意味になる。その「すっきりとした一人暮らし」に添えて、季語である「冷蔵庫」をポンと単独で置いたのが句の深み。季語を説明してはならないという原則をしっかりわきまえたということだろう。「や」と「の」この一字の違いで俳句の良し悪しががらりと変わる。
すっきりとした一人暮らしの、すっきりとしたたたずまい。もちろん、冷蔵庫の中もすっきりしていることはいうまでもない。(kinuta)
1 弓絞る娘の指細し桃の花
「指細し」が瑣末的な説明に終わっているようです。もっとざっくりと表現したい。「きりりと弓絞る少女や桃の花」
2 常念岳の肩に槍ヶ岳の穂はだれ雪
「じょうねんのかたにやりのほ」と読ませるのでしょうか。あまり複雑な読ませ方は、俳句の速度を鈍らせます。
3 塩の粒すぐ透きとほる桜鯛
この「透きとほる」も瑣末的な説明。もっと大胆に。「粗々と塩ふりかけて桜鯛」では面白くないのでしょうが、そこが出発点。
4 独り子に抱かれてゐる恋の猫
「独り子」が効果不発。
5 水車村中響く春の音
「春の音」は上五中七と「イコール」の記号で結ばれた説明。たとえば「村中に水車の響く朧かな」
7 駄菓子屋の廻りつづける風車
「駄菓子屋」の方を修飾する。季語である「風車」は修飾せずにぽんと単独で置く。「駄菓子屋に下駄の音あり風車」、それにしても、「駄菓子屋」と「風車」はつきすぎ。
8 春の雲遥かなること近きこと
分かったようでよく分からない句。
9 きらきらと川面光れり桜餅
「きらきらと川面光れり」は平凡、これを平凡な句にしないのが「桜餅」の季語の力。
12 のろのろと猫車押す日永かな
何のために「猫車」を押すのか、そこを省略したら駄目。「客土して猫車押す日永かな」
13 揚げたてを一つつまみぬ蕗のたう
蕗の薹でなくても句は成立するが、やはり蕗の薹がいい。
15 同じ道行きつ戻りつ春の宵
なんのために「行きつ戻りつ」なのか。心の動きが分かる季語を。「この道を行きつ戻りつ春惜しむ」
16 響かせて雪吊を解く大鋏
「鋏を響かせて」が正しい日本語。その正しい日本語に割ってはいるのが「雪吊を」。リズムを整えようとして、言葉をゆがめては駄目。「雪吊を解くや鋏を響かせて」
18 つちふるや赤べこの首よく揺るる
「揺る」が終止形で、「揺るる」は連体形。「揺るる」の後に何か体言(名詞)が省略されています。どんな体言か考えてください。
19 春風や馬のいななく昼下がり
だからどうした、というような句。「昼下がり」が無駄な言葉。「はるかより馬のいななき春の風」
20 クローバー四葉あつたと笑ふ君
発想が安易。
21 ぎざぎざの葉にくるまつて桜餅
「貼りついて」がいい。
22 春泥やわが生涯は愚の一字
悲観しすぎるとかえって空々しくなるもの。
28 天守閣の濡れ羽の色に春の雨
「濡れ羽の色に天守閣」が落ち着きます。「春の雨濡れ羽の色に天守閣」
29 つばくらやするりと抜けて太鼓橋
「や」ときらないほうが自然。「つばくらのするりと抜けて太鼓橋」
30 梅未だ咲かぬ嘆きや弥生尽く
「弥生尽く」と置くから理屈になる。「梅いまだ咲かぬと風の嘆きかな」
(kinuta)