エッセイ 思い出の蕎麦
その店の裏手には阿賀野川が流れ、それをはさんで麒麟山が聳える。切り立った岩肌の冬紅葉が青空に美しく映えていたが、小春日和というにはいささか風が冷たい。麒麟山公園の桜や欅はすっかり葉を落し、晴れていてもどこか蕭条とした雰囲気が漂う。いつ雪が降ってもおかしくない季節なのだ。
店の名は塩屋橘(しおやたちばな)、昔、塩を商っていたのだろうか。紺暖簾に白抜きの大きな文字が人目を引く。家の構えは立派で、古い蔵屋敷を店に作り変えたらしい。
のぽりもなければ看板も掲げていないので、何か食べさせてくれる店と察しはつくが、何の店かはわからない。出てくる人に尋ねると蕎麦屋だという。
磐越道も会津に近いこのあたりは、蕎麦のうまい店が多いらしいのだが、期待して入るとたいていはがっかりさせられる。それでも、お腹も空いていたし、他によさそうな店も見当たらないので、その大仰な暖簾をくぐることにした。
注文したのはもり蕎麦。蕎麦を吟味するのならかけ蕎麦よりもつけ汁でいただくもりやざるであろう。かけ蕎麦は醤油味に蕎麦がつかっている分だけ、蕎麦本来の味が隠されてしまう。
ほどなく、注文したもり蕎麦がやってきた。一口いただくと、ほのかに蕎麦の香りがする、腰が強く風味が逃げていないのは、打ち立ての蕎麦をほんの一瞬でゆで上げるせいであろう。つけ汁も控えめで、蕎麦の脇役をわきまえていた。
美味しい蕎麦に出会うと、食いたりない気分になるが、まさかもう一枚というわけにもゆかない。心をのこして店を出たが、そういう余韻のある食べ方がなによりの馳走なのかもしれない。
麒麟山よき新蕎麦を食はせけり
僥倖というにはちょっと大げさかもしれないが、いい蕎麦にめぐり合うことがめったにないだけに、思わぬ拾い物をしたような気になる。
十年ほど前になるが、福島県奥会津の昭和村でおいしい蕎麦に出会ったことがある。
蕎麦を食べたい、というと、その人は、
「蕎麦は打つが、食堂はやっていない」
とぶっきらぼうに応えた。「うちの蕎麦は、ここから二キロばかり離れた昭和温泉のしらかば荘で食べさせる」とのこと。他に食堂も見当たらないので、その温泉まで引き返して、ぶっきらぼうさんが打った蕎麦をいただいた。僕はそれまで、蕎麦といえば駅の立ち蕎麦か乾麺くらいしか知らない、言わば蕎麦音痴だった。その時も蕎麦の味がどうのこうのというより、とにかく腹を満たせればいい、という思いであった。
ぶっきらぼうさんが打った蕎麦を私は甘いと思った。勿論、お菓子のような甘さではない。蕎麦粉それ自体が秘めている風味に甘みを感じたのだった。それが真の意味で、四十五年ほど生きてきた私と、蕎麦とのはじめての出会いだった。そのときの私は、蕎麦ってこんなにおいしいものだったのか、という新鮮な驚きに襲われていた。
そんなことがあってから年に数回はぶっきらぼうさんの蕎麦を僕の住んでいる新潟まで送ってもらうようになった。ある年の暮れに電話で蕎麦を注文したところ、
「大雪で蕎麦を打つどころでない」
とやんわり断られるようなこともあった。よくよく欲のないところをみると、半分は趣味で蕎麦打ちをやっていたのかもしれない。昭和村の片田舎で蕎麦を打っているよりも、都会に出て小さな店でもを出せば繁盛間違いないと思わせるほどの蕎麦であったが、そんなことには無頓着がゆえにまたおいしい蕎麦を打てたのかもしれない。
そのぶっきらぼうさんも、数年前にこの世を去っている。電話で蕎麦を注文したところ、
「家内です」と奥さんが出て「主人は死んじゃいました」とこちらもけっこうそっけないあしらい。ぶっきらぼうさんは、七十歳を少し出たくらいの風貌だったので、まだまだいい蕎麦が打てたはずだった。ぶっきらぼうさんの名前は「鈴仁」さん、鈴木なんとかというのだろうが、正確な名前は分からない。
そのひとの粋が打たせて走り蕎麦
鈴仁さんの蕎麦にはちょっと適わないが、それでも旨い塩屋橘の蕎麦、帰りには、酒の肴にはもってこいの津川名物、鰊の麹漬けをたっぷり買い込んで、鄙びた温泉の町を後にした。(m_大呂6号から転載)