一枚脱ぐとそこに白装束の海女の姿が現れる。脱いだ着物を詠みながら、実は海女の姿をくっきりと浮かびあがらせている。「落ちし着物」といった描写が艶やかでもある。(m)
カテゴリーアーカイブ: 一句鑑賞
けふ春の光の中に光堂 藤英樹
「中尊寺」と前書きがあるがなくてもよさそうな一句。実際の光堂は保護のため建屋の中に保存されていて「春の光の中に」は想像力の描写である。(m)
手をついて歌申しあぐる蛙かな 宗鑑
朝顔を黙つて蒔いてをりしかな 安住敦
俳句の覚悟
俳人長谷川櫂による「ネット投句」は、インターネットを利用した俳句投句サイトである。毎回六十人ほどが参加し、投句総数は百八十句くらいになる。、優秀作品は入選、さらにいい作品は特選に選ばれる。
その「ネット投句」のシステムを管理しているのだが、この投句システムの特徴は、締切まで何度でも投句した句の訂正が可能であるということである。この訂正をよく利用する投稿者もいれば、潔く一度で終わる投稿者もいる。訂正を推敲の場と解して何度も訂正をかけてくるのかもしれないが、面白いことに、何度も訂正した作品が入選・特選に選ばれることはあまりない。むしろ一回できっぱりと打ち切った句のほうが、選ばれているようである。勿論、そうした、思い切りの良さの裏には、投句する前の入念な推敲があるのだろう。何度も訂正をかけるのが悪いというのではないが、「覚悟のほど」を感じるのは、やはり、訂正をせずに一回で投句を終わらせる俳句である。
選者の意向を推し測って選者の好みそうな俳句を投稿してみても、うまくいかないのは当たり前のこと、選にとられなくてもそれはそれで仕方ない、むしろ自分の俳句を大切にしようという態度のほうがいい結果を生み出しているのかもしれない。
俳句は基本的には五七五の十七文字しか使えない。その短さゆえに、いい俳句悪い俳句の違いが人によって極端に分かれることがままある。朝日俳壇は四人の選者が同じ投句はがきを読みまわして、一人が十句選をする共通選だが、選が重なることはめったにない。選者によってこうも採りようが変わるものかと思うほどである。百人いれば百人の選があり、千人いれば千の選があるのが俳句。多くの人から受け入れてもらおうと思うより、自分はこれでいいと思うくらいの覚悟が必要なのかもしれない。(m)_大呂15号編集後記より
いちにちのつひのひかりのさくらかな 高田正子
飛び散つて蝌蚪の墨痕淋漓たり 野見山朱鳥
まいまい句会感想②
囀は足下にあふれ大吊橋 さら紗
芭蕉の「雲雀より空にやすらふ峠かな」を連想します。もう一工夫がほしいところです。
菜の花を湯がいて香り立つ夕餉 文女
湯がいて香りたつは料理の手順のようです。「菜の花をさつと湯がいて夕餉かな」くらいで良いと思うのですが、きっと作者は物足りないのでしょう「お浸しに残る花菜の香りかな」とか香りに焦点をあてる言い方もあると思います。
ゆく春や鐘楼の鐘谺する 政己
鐘楼とは鐘つき堂のこと。鐘楼の鐘は少し考えもの。梵鐘の音でよいのでは?「ゆく春や梵鐘の音谺して」
病む鼻に花粉飛び交う春の風 あやめ
「病む鼻」がダイレクトすぎるように思います。「春風や花粉に鼻のむずむずと」(これでは報告ですが)「春風に杉の花粉のどこまでも」など言い回しを考えてみて下さい。
自ずから車座となる花の宴 いつせ
「花の宴」より「花筵」のほうが景が見えてくると思います。
旅の垢を払う軒下初つばめ 輝久
旅の垢を払うのは人間だと思うのですが、もし燕が海を渡ってきたその旅の垢を払っているとするのであれば少し無理だと思います。
ほろ酔ひの頬刺しゆくや桜東風 雅宏
頬を刺す風と言えば冬の冷たい風を連想します。「頬さます」くらいで良いのではないでしょうか。
(立)
まいまい句会感想①
花冷えや人数減りし同期会 くに
季語に工夫を。「人数減りし同窓会」も単なる報告の感じがします。「親と娘のうすき縁や鳥雲に」俳句は愛でることが大切です。二つとも少し気持ちが後ろ向きでは?
靴脱いで蟻の行列眺めをり 葦たか
なぜ靴を脱いでいるのか解りません。
春の雪棋士にらみあふ庭園に 一穂
このまま読むと棋士が庭園でにらみ合っているようです。多分棋士の居る部屋から眺めた庭園に春の雪が降っているの だと思うのですが
永日や子ら校庭にいつまでも 一穂
形もできているのですが「いつまでも」が報告です。この「いつまでも」をとり「校庭の子供の声の日永かな」とすると、報告の感じはしないと思います。
きぬぎぬの睫毛に春の愁ひかな かまか
雰囲気に頼りすぎている感じがします。気分だけの俳句。
(立)





