一句を読み解く19

春の燈や女は持たぬのどぼとけ 日野草城
取り合わせの俳句である。取り合わせは、二つの異なる事象をあわせて俳句にしようとするもの、草城の句は「女は持たぬのどぼとけ」という当たり前の事柄と「春の燈」を取り合わせている。
何ゆえに「春の燈」なのか、それが数式に導かれるようにすらすら答えられたらいいのだが、俳句にそんな明確な答えなどあろうはずがない。
こころみに「女は持たぬのどぼとけ」にかなり近い季語を添えてみよう。
咳をして女は持たぬのどぼとけ
マフラーや女は持たぬのどぼとけ
春ショール女は持たぬのどぼとけ
みな喉にかなり近い季語で、俳句に広がりが出ない。狭いところで納まっている。
ならば、「女は持たぬのどぼとけ」に遠い季語はどうだろう。
白魚や女は持たぬのどぼとけ
風光る女は持たぬのどぼとけ
畦塗りや女は持たぬのどぼとけ
遠すぎる取り合わせは、俳句のバランスを欠いていて、平衡をささえる支点が見つからない。
春の燈によってぼんやりと浮かび上がる「女の喉」、その辺の距離感が取り合わせの俳句の妙ということだろう。そうしたバランスは個人によって微妙に違うだけに難しいとも言えるが、それゆえに取り合わせの俳句が面白いともいえる。
草城の句の「春の燈」が正しい選択であったかどうか、いい取り合わせという人もいれば、よく分からないという人もいるだろう。今はよくても、百年後にはよくないという話しになっているかもしれない。
取り合わせの俳句に「この季語は動かない」という言葉があって、取り合わせの必然性絶対性を指摘するが、実際のところ、「動かない」は大げさ、その人の生活環境や体験が俳句の理解に深く関わっている以上、百人いれば百通りの取り合わせがあると考えたほうがいい。
取り合わせが適切か不適切か、結局のところはっきりした答えはないのだが、それでも草城の句の「春の燈」のようになんとなくしっとりとした二つの距離感は確かにある。正確な答えはないが、確信に近い何かもやもやしたものはある、その曖昧さが俳句なのであろう。(kinuta)
