
下駄にのる踵小さし菊日和 鈴木真砂女
下駄に小さな踵がのっている。堅実な写生の俳句であるが、読者にどんな女性だろうと興味を抱かせるところが、単に写生にとどまらないこの句の奥行きである。「菊日和」という明るい季語が、健康的な雰囲気を漂わせている。(m)


下駄にのる踵小さし菊日和 鈴木真砂女
下駄に小さな踵がのっている。堅実な写生の俳句であるが、読者にどんな女性だろうと興味を抱かせるところが、単に写生にとどまらないこの句の奥行きである。「菊日和」という明るい季語が、健康的な雰囲気を漂わせている。(m)

金木犀こぼして雀雨宿り 飴山實
擬人法の俳句である。「金木犀こぼして雀五つ六つ」あたりが無難なところだろうが、それでは面白くない。面白くないから、もう一歩踏み込む。もう一歩踏み込んだところが「雨宿り」である。踏み込んでも、言い過ぎにならない程度のもう一歩、俳句はこの「一歩」が難しくも大切である。(m)

低く垂れその上を垂れ萩の花 高野素十
「客観写生」の忠実な実践者と言われた高野素十、この句もまさに、見たままを捉えている。見たままをとらえているが、こういう風に見ることはなかなかできない。見たままを捉えることよりも、ものをどう見るか、その大切さを教えてくれる一句である。(m)

秋扇閉ぢてひらきて思ふこと 小寺敬子
「思ふこと」が何なのか、言いっ放しで終っている俳句である。放られたほうの読者は「思ふこと」が多少気になるものの、季語の「秋扇」の働きでそれとなく察してみることができる、そんなに愉快な「思ふこと」ではないようだが、ちょっと品の良い「思ふこと」かもしれない。(m)

父母を暑きこの世へ招きけり 吉田穂津
季語が「暑き」であれば夏の句になるが、この句はあきらかに「魂迎え」の句である。したがって「暑き」は残暑、「この世」は盂蘭盆会のこの世ということになる。季語ではなく、句全体から季題を読み取らねばならない。(m)

けさ秋の伊豆のみえたる机かな 長谷川櫂
「机かな」と下五に切字「かな」を添えて、「机」に焦点をあてているが、実際には、机に向かっている作者の心構えのようなものが、この句の要であろう。立秋の朝の澄み渡った景色を眺めて、さて執筆に入ろうか、というところか。(m)

蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし 中村草田男
「長子」は長男。「由もなし」は理由もない。つまり、家を出たいのだが、家を継がねばならない長男としては、家を出て行くまっとうな理由もない、長男は家という桎梏から逃れられない、ということ。
それが、「蟾蜍」とどう響きあうのか、「家」という重圧に踏み潰される長男いう宿命が、あの「蟾蜍」に象徴されているということであろうか。理屈では読み解けないのが、この種の取り合わせの俳句である。