「ちょっと違うんだよな、もう少しウスターソースの味が勝っていて・・・」
珍しくハンバーグが食べたいといったあの時のつれあいの言葉、結婚してすぐのころであったろうか。
「始めてお袋が作ってくれたあの時のあの味とはぜんぜん違うな」
「えーこっちの方が本格的だし美味しいはず」とわたし。
お互いのエネルギーがぶつかり合えば犬も食わない夫婦喧嘩だ。
年齢を重ねれば解るが、誰にでも子供の頃、始めて口にした食べ物に感激した覚えがある。中でも一番始末がわるいのはお袋の作ったもの。そこに楽しい思い出や懐かしい出来事が加わると、どんな調理人も太刀打ち出来ない。
英国に留学したモダニストの詩人西脇順三郎が、ふるさとの小千谷に戻り、最後に食べたいといったものが塩鱒だったそうな(事実は不明)。料理を呈する方にとっては「あの時の味」というやつほど厄介なものはない。同じ味は再現できたとしても、心弾む思い出や楽しい出来事までも再現は出来ない。賢明な男と女であれば、その辺りのマジックに気がつくはず。利口な男はそんな味を妻に求めない。
本格的に出汁をとったものはどんな料理でも美味しいものだ。それが味噌汁であれば冷めてもおいしい。げんに「冷し汁」なる夏の料理もある。
「遠い日のあの味」は、記憶の中で発酵している旨味がほどよく加わっている味かもしれない。(立)
カテゴリーアーカイブ: エッセイ
香り
先日テレビをみていたら、微量の化学物質に反応し様々の症状に苦しむ人がいることを知った。
科学物質といわれるものの中には何気なく使用している芳香剤なども含まれるそうだ。いわれて見れば身の回りには洗剤や消臭剤など、不必要とも思えるほどの「香りづけ」があるのに驚いた。
幼稚園で金木犀の花の香りを、トイレの匂いといった子がいたそうだ。テレビのCMにはこの手の香りが山のように放映されている。忙しい世の中とはいえ、トイレはまめに掃除をすれば匂うものでもない。人工的な香りは度を過ごせば匂いとなる。「匂い」のうちなら良いが「匂う」となると大変だ。
花一つとっても、自然の香りには幽かなものが多くそれほど強いものはないように思える。若葉の匂いや水の匂い、稲の匂い、雨が近いころの少し湿った匂いなど俳句の材料になりそうなものが沢山ある。
日本には「香道」という文化もあり、香りに対しては高い意識があるをもっている。花は散り香りも消える、だからこそ気持ちが惹かれるのだろう。
「匂う」を通り越して「臭い」俳句などとは間違っても言われたくないものだ。
菊の香や奈良には古き仏たち 芭蕉
どの山のさくらの匂ひ桜餅 飴山實
(立)
贅沢
伽羅蕗を頂いた。あの真っ黒な伽羅蕗と当座煮の中間くらいのもの。鷹の爪がぴりりと心地よい。
話をしているうちに随分と高い伽羅蕗であることがわかった。水は一滴もいれず、酒と醤油だけで炊いたものだ。その酒もなんと飲んべいがよだれをたらしそうな越後村上の銘柄。醤油も遠方より取り寄せたものらしい。
蕗はどこにでもあるが、採る場所採る時期にこだわったとのこと。野にある蕗はただでも、見えないところに随分と手間と費用をかけている。もちろん美味しい。過ぎて行く季節をおしみつつその季節の恵みを存分引き出しそれを味わう。いたずらにデコレーションされたものよりも、そのものが持っている本質に触れる。それは料理に限らず、何ごとにも通じるようだ。本当の贅沢とはそういうものではないだろうか。(立)
山菜採
初めて本格的な山菜採りに連れて行ってもらった。それまでは近所の里山ばかりで野遊びの延長のようなもの。とても山へ入るなどと言えるものではなかった。
行った山はそれほど標高があるわけではないが、道路は一部雪で塞がれ無理をすればやっと車が通れるくらいだ。ここで車を降り長靴に履き替えてタオルを首に巻き熊よけの鈴を腰にぶら下げた。雪や除雪車で傷んだでこぼこの道路を雪解水が走っている。山菜採りに慣れている友人はもう足元の山独活をみつけた。あれこれ教えられても、素人にとってはどの木の芽も同じようで、どれがどれだか見分けもつかない。
驚いたのは木五倍子(きぶし)から片栗、むしかり、杉に絡まる藤、朴の花と早春から初夏の花が図鑑でも見るようにいっぺんに咲いている事だった。
少し登ったところで、友人は目的のものがあるらしく一人道をそれて山の奥へ入って行った。木陰で一休みしつつ腰を下ろしていると、今まで気にも留めなかった熊よけの鈴が妙に存在感のあるものに思えてくる。
薇でも独活でも、同じ道端にありながら、少しでも木の陰や朽葉の下になったものと,日を浴びたものとでは成長が著しく違っている。コシアブラやタラの芽にしても、もう長けてしまって採れないものもあれば、これからというのもある。競って成長をしているさまはそのまま芽吹の色になって現れ、まざまざと植物の命を見せ付けられる。人間にとっては鳥や動物を殺めるほうが植物の命を奪うより心苦しいが、それは勝手な判断で植物にしてみたら数ヶ月もの間雪の下になり、待ちわびていた日の光を見たとたん人に食われてはたまらないだろう。そう考えるとタラにしてもコシアブラにしても、木が枯れつくすほどに採る気にはなれないし採ってはならないと思う。
この地に暮す人々も長い間雪に降り込められ春を待ちわびた人々なのだ。家のつくり一つ見てもその雪の多さは想像できる。山菜はそういった人々への神様からの贈り物なのだ。そう考えるとそのおすそわけを少し頂戴できるだけで、十分ではないだろうか。(立)
「薇(ぜんまい)」と「蕨(わらび)」
雪が解けるとそれを待っていたかのように伸び出すのが、蕨や薇、独活、蓬、鳥足、うるい、こごみなどの山菜。中でも収穫が多いのは薇と蕨、どちらもシダ植物で、都会の人にはその二つを判別できない人も多いようだ。
薇はその先端部がくるくるとまるまっており、新芽のころは全体が綿毛で覆われている。
ぜんまいののの字ばかりの寂光土 川端茅舎
茅舎の句の「のの字」は薇の先端部のことである。
収穫したものは天日にさらして、もみほぐしながら水分を抜き、からからに渇いた状態で保存する。春に採れるので春の季語になっているが、雪国ではむしろお盆や正月の料理に具されることが多い。
一方、蕨はあくの強い山菜で、採ってきたものは木灰や重曹などであく抜きをして食す。塩漬けで保存したりもするが、薇と違って蕨は旬のものをいただくのが一番、糸を引くほどのぬめりが特徴の山菜である。
めぐる日や指の染むまでわらび折る 白雄
白雄の句、指が染むほどの収穫があったのだろう。指先が黒くなるほどあくが強いのである。乳牛が牧草に混じった蕨を食べると乳の出が悪くなるというほどのあくである。
薇は煮物、蕨はおひたしにするのが一番、酒の肴にいいのは、どちらかといえば蕨であろうか。(kinuta)
ネット句会感想
木蓮の花あをざめし夕べかな りつ
純白の花びらに、青の印象を重ね合わせた一句。虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」に通じる。
山吹の導くままに地蔵堂 千吉
山吹は導かない。「山吹の花に添うてや地蔵堂」
散り急ぐ花の乱れや風の道 風花
「散り急ぐ」も「花の乱れ」も同じような意味。「風の道」がさらにそれを理屈づける。秋桜子の「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々」のように読みたい。「○○に花散り急ぐ大伽藍」たとえば「天空へ花散り急ぐ大伽藍」
川に沿ふ道うねうねと雨蛙 みいこ
下五に「蛙かな」と置きたい。「川に沿ふ道うねうねと蛙かな」「うねうねと川に沿ひゆく蛙かな」もちろん、川に沿いゆくのは作者。
白木蓮耀く村を通りけり 風花
どんな風に、何が輝いているのかが大切。白木蓮が輝いているのなら、「高々と白木蓮のかがよへる」そうでないのなら、「白木蓮村ぢゆうの水かがよへる」
その中に教会ひとつ麦の秋 みづほ
「麦の秋」は時候。本来なら「その中に教会ひとつ麦畑」でなければならないのだが、「麦の秋」の方が句としては雰囲気があるから俳句は不思議。
もやもやと年寄遊ぶ桜かな しをり
「もやもや」がよくない。年寄を讃え、桜を讃えるのが俳句。「八十の男女あそべる桜かな」
麦の秋遠く聞こゆる暮の鐘 ひろし
「暮の鐘」があいまい。「梵鐘の遠く響ける麦の秋」
大粒の雨がこぼれて朴の花 みづほ
急に湧いてきた黒雲、一滴の大粒の雨が頬を打つ。
筍や由緒正しき越境者 風花
「由緒正しき越境者」が意味不明。「隣の家の筍が塀を越えて生えてきた」と斟酌できないわけでもないが、俳句は人に考えさせてはだめ、一読すっと頭に入る俳句を。
炊きたての飯かがやける立夏かな 百合
「飯かがやける」がおもしろい。
その重み小枝傾ぐや玉椿 しをり
もっと整理したいところ。「よべの雨枝たはませて玉椿」
きらきらと水は光りて雲雀かな りつ
「きらきらと水は光りて」に一工夫。「きらきらと水急ぎゆく雲雀かな」もっといい季語はないか?
なみなみと水をたたへて代田かな みいこ
「なみなみ水をたたへて」が安易。「どこそこの水をたたへて代田かな」「月山」とか「白山」とか。「たたへて」は、「称えて」でも「湛えて」でもOK。
(kinuta)
画家Tさんからの手紙

古い手紙を整理していたら、画家のTさんに猫を譲った時のものが出てきた。せっかく頂いたのに、交通事故でなくなってしまったという詫び状で、今まで飼った猫達と同様庭に埋葬したというものだった。冥界入りした新参者の猫を思いやる気持ちが伝わってくる内容で、折にふれ時にふれ庭を見ては心を寄せるTさん、亡くなった猫たちも幸せだろうと思った。このTさん自信も猫たちの傍で過ごすことが出来て幸せなはずだ。
今、原発でふるさとを追われた人々は生まれ育った地を離れ、先祖の墓に手を合わすことも出来ない。馴染んだ地を離れるという事は、今まで築いてきた時間を奪われる事だ。目前にありながら踏み入る事の出来ないふるさと。被災した人が言っていた。「福島の風土が自分を育ててくれた、風土とは風と土です。他の土地をもらってもそれは違う」と。そして「育った家はただ広く寒い家だった、雪が降れば戸の隙間から雪が吹き込むそんな家だった。でも戻りたい」と。
先日越した家には、沢山の樹木が植えられていて、この木々を育てた老婦人は山椒の脇にでた、小さな苗木を引き抜き新しい住まいに持って行った。木々とともに育てた多くの思い出を置いてゆかざるを得ない気持ちが、ずっと此処に住みたかったという言葉に表れていた。
一年前、連続して飼い猫を亡くした。離婚して住み慣れた家を離れるに当たり、奉書紙に包んでそれらの骨を粉々にして撒いた。彼らと走り回った裏山に、中庭に、池の傍に畑に。この季節にはどの場所が好みか、この時間にはどの辺りに居るか考えられる全ての場所に少しづつ撒いた。その家では何匹もの犬や猫を飼った。皆、庭に埋められ仲良く過ごしているに違いない。ただ彼らに申し訳ないのは先のTさんのように、今は傍で過ごしてやれないことだ。柱についている爪の傷跡も、得意気になって駆け登った梅の木も今は思い出の中にしかない。
本能
囀の楽しい季節。鳥の名はわからないが、いろいろな鳥の鳴き声を聞いていると心がはずむ。恋が成就して、あきらかに今年の子とわかる鳥が庭を動き回っているのを、毎年ひやひやとして眺めていた。飛び立つ時黄色い色がひらひらと見えるカワラヒワは、親鳥より一回り小さい。ほっそりとしたウグイスやセキレイ、ギイーギイーとやかましいヒヨの中にも今年生まれた子がまじっている。スズメの子もいる。まだこの世に経験の浅いそれらの雛をねらって猫が木陰からじっと様子を伺う。あきらかに獲物を狙っている野生動物の姿。伸びきってストーブの前で寝ていた姿とは大違いだ。ある時、木陰からスズメをねらっているのを見て、慌てて声をかけたその一瞬、無事逃げたと思ったスズメは無残にも猫にくわえられている。猫は地にいるスズメを狙ったのではなくスズメの飛び立つその先を見据えて、鳥に飛びかかったのだ。生まれ持った能力とはいえ、驚くばかりだ。家飼の猫も外に出たスキに鳥を捕らえ、自慢気に飼い主に擦り寄ってくる。誰が教えた訳ではないが、これが本能なのだろう。
猫に捉えられるという自然の摂理によって落とす命もあれば、今年生まれた多くの仔猫が身勝手な人の心によって保健所に引きとられ処分されるという現実もある。(立)
笊

この春一番の山葵を頂いた。日当たりの良い所から積んできた山葵はまだ小さく、蕾はさ緑色だ。わさびには何だか申し訳ないようであるが、まことに嬉しい初物である。
山菜はおおむね泥や枯葉などで汚れているものだが、頂戴したものは、綺麗に洗ってあり、枯葉も泥もなく痛んだ葉もとりさってあった。丁寧な仕事振りがあり難い。根は摩り下ろし、葉も茎も全て刻みたっぷりの塩で良く揉む。山のような山葵を刻んで笊に入れようとした時、はたと気がついた。大笊がない。家族の構成が変わり、必要のなくなった大笊は処分したのだ。仕方なく20センチ程の笊で間に合わすが、刻んだ葉を揉む際に力が入らない。山と刻んだ山葵を何度も小さな笊に入れ、塩で揉んでアクをとる作業を繰り返した。
独り暮しになって大家を切り盛りする必要のなくなった安堵感と淋しさは手が覚えている感覚によって、鮮明に甦る。不便を押しての山葵漬が出来あった。鼻につんと来るのは山葵の辛さのせいだけではないようだ。(立)
さくら

半世紀も前の事。大阪での音楽会。コロラチュアソプラノを初めて聴いた。ア・ラ・ソレンコアの声は聴衆を魅了して余り有るものだった。そのアンコール曲が「さくら」だった。森として拍手までの時間が止まったよう。
さまざまの事思い出す桜かな 芭蕉
日本人なら誰もが持っているであろう桜への思い この句が何世紀も残って行く所以であろう。名句の条件の一つは万人が共感出来ることと改めて思うこの頃である。(風花)
