山菜採
初めて本格的な山菜採りに連れて行ってもらった。それまでは近所の里山ばかりで野遊びの延長のようなもの。とても山へ入るなどと言えるものではなかった。
行った山はそれほど標高があるわけではないが、道路は一部雪で塞がれ無理をすればやっと車が通れるくらいだ。ここで車を降り長靴に履き替えてタオルを首に巻き熊よけの鈴を腰にぶら下げた。雪や除雪車で傷んだでこぼこの道路を雪解水が走っている。山菜採りに慣れている友人はもう足元の山独活をみつけた。あれこれ教えられても、素人にとってはどの木の芽も同じようで、どれがどれだか見分けもつかない。
驚いたのは木五倍子(きぶし)から片栗、むしかり、杉に絡まる藤、朴の花と早春から初夏の花が図鑑でも見るようにいっぺんに咲いている事だった。
少し登ったところで、友人は目的のものがあるらしく一人道をそれて山の奥へ入って行った。木陰で一休みしつつ腰を下ろしていると、今まで気にも留めなかった熊よけの鈴が妙に存在感のあるものに思えてくる。
薇でも独活でも、同じ道端にありながら、少しでも木の陰や朽葉の下になったものと,日を浴びたものとでは成長が著しく違っている。コシアブラやタラの芽にしても、もう長けてしまって採れないものもあれば、これからというのもある。競って成長をしているさまはそのまま芽吹の色になって現れ、まざまざと植物の命を見せ付けられる。人間にとっては鳥や動物を殺めるほうが植物の命を奪うより心苦しいが、それは勝手な判断で植物にしてみたら数ヶ月もの間雪の下になり、待ちわびていた日の光を見たとたん人に食われてはたまらないだろう。そう考えるとタラにしてもコシアブラにしても、木が枯れつくすほどに採る気にはなれないし採ってはならないと思う。
この地に暮す人々も長い間雪に降り込められ春を待ちわびた人々なのだ。家のつくり一つ見てもその雪の多さは想像できる。山菜はそういった人々への神様からの贈り物なのだ。そう考えるとそのおすそわけを少し頂戴できるだけで、十分ではないだろうか。(立)