のびやかさとユーモアと
五七五は俳句の掟であり、俳句の容れものである。俳句を志した時から私たちはこの容れものに逆らうことなく、言葉を規則正しくその中に収めてきた。自ずと言葉の並べ方にもそのひとなりの規則性のようなものができて、気がついてみると、どの句も同じようなトーンでできあがっていることに気づかされることになる。無難な言葉が、優等生のように五七五の容れものの中にかしこまっているというわけである。
葛西美津子さんのこのたびの句集『そして秋』(青磁社2,200円+税)を読み終えて思ったのは、言葉のおおらかさである。言葉が五七五の容れ物の中で水を得たかのように自由にふるまっているのだ。句をいくつか見てみよう。
やはらかに吹かれゐるものみな若葉
謎解きのような一句。「みな若葉」が軽やか。
ハンモックぱらぱら落つる花は何
「花は何」は、何の花だろうか?ということ。読み手に下駄を預けた感じが洒落ている。
そして秋きてゐる砂の白さかな
「そして」は事柄を付け加える接続詞、「そして」で始まるめずらしい形の一句。
つくつくしはるかかなかななほはるか
ことばをちょっと手玉に取っている遊び心。
うつくしく落ちゆくものを秋といふ
これも謎解きの一句。「うつくしく落ゆくもの」イコール「秋」という構図である。
夜ごとぶつぶつどぶろくの一升瓶
どぶろくが「ぶつぶつ」とものを言う、擬人法の俳句。
朴落葉踏んですなはちこなごなに
「踏めばすなはち」なら理屈、「踏んですなはち」に勢いがある。
トロ箱に鮟鱇一匹いや二匹
「いや」が巧み、二匹いたのかという小さな驚きが伝わってくる。
鷹一つ空に吸はれて後知らず
「後知らず」が無責任で、軽やか。
へんな名のへんな形のちよろぎかな
「へんな」で韻を踏んでいる。
三寒も四温も君と過ごしたし
「三寒四温」を二つに切って、これも韻を踏む。
春の雲蕎麦待つてゐる二階かな
「二階かな」はちょっと思いつかないような措辞。
そこここに一輪づつや一輪草
「一輪」のリフレーンが効果的。
五七五に収まっていながら、五七五の枠を感じさせないのびやかな俳句ばかりである。可能な限り助詞を省略することで切れを生み、ぽんぽんと言葉が撥ね回っているようでもある。言葉の使い方の巧みさもさることながら、ものの見方、心のありようものびやかなのだろう。そのあたりは、句集の中にいくつか見られる暗喩の俳句にも見て取ることができる。
恋一つ冷やしてありぬ葛ざくら
万緑を切り出だしたる硯かな
天牛の鋼を運ぶ蟻の列
へうたんとへちまの仲の二人かな
水槽の水一トンの寒さかな
暗喩は、一見関連性のないような二つの言葉の間に磁場を発生させる表現方法である。言葉をねじ伏せるような力技のようにも思われるが、言葉の持つ力を信じなければ独りよがりの表現になりかねない。
一句目、「冷やされた恋一つ」イコール「葛ざくら」という構図である。
二句目は、「万緑の岩を切り出して」ということ、「岩」が省略されたことで硯の陸と海に万緑が立ち現れる。
三句目は、直喩の「鋼のような天牛」をひょいと飛び越えて「天牛の鋼」である。「ような」や「ごとく」という直喩の要件が切り捨てられている。
四句目、「へうたんとへちまの仲」は似た者同士ということ。
五句目、「機動隊一個小隊ほどの愛この俺だけに通ずる暗喩 岡井隆」があって、三十八年も前の短歌であるが、「この俺だけ」でなく今では多くの人に通ずるこの種(水一トンの寒さ)の暗喩である。
ユーモアのありようも見逃せない。
噴水の水も疲るることあらん
泥芋のやうな御仁でありしかな
俎板に畏まりゐる海鼠かな
首かしげまたふくらんで雀かな
腹の虫我を起こすな大朝寝
などなど。
さらに、動物の句が多いのもこの句集の特徴の一つであろうか。全体の二百五十八句中、動物にかかわる句は六十二句もある。作者の自選十句のなかにも、
つくつくしはるかかなかななほはるか
この世へとただようてきてきし浮寝鳥
白鳥眠る雪となり花となり
からだごと椿にあづけ花吸は
と四句を数える。動物にかかわる句が句集に躍動感を与え、読み手にのびやかな印象を抱かせているともいえる。
句集を買ったりいただいたりすると、まずさっと全体を読み終える。中には五六句読んで放棄するものもあるが、いい句集は、全体を読み終えた後で、さらにもう一度ということになる。一読目と違って再読は念入りに、行間から立ち上がってくるものを意識しながら読むのである。この句集『そして秋』はそこで終わりではない。読んでいると無性に俳句が作りたくなる、そんな衝動を与えてくれる、創造を刺激してやまない句集でもある。

