作句あれこれ⑧ 逆境の俳句
俳句は自然賛歌人間賛歌の文芸ですが、人間賛歌の俳句のなかには人の生き様を讃えるにとどまらず、人を励まし、人に勇気を与える俳句も数多くあります。昨年の三月十一日に東日本を襲った大震災の被災者への励ましの俳句などはそのいい例でしょう。
桜貝残されしもの未来のみ
いくたびも揺るる大地に田植かな
幾万の声なき声や雲の峰 長谷川櫂『震災句集』
例に引いた俳句は、第三者が災難に見舞われた当事者を思いやって詠んだものですが、当事者自身が、逆境に置かれた自らを客観視して詠むということも、読者に大きな勇気と感動を与えるものです。しかし、災いの渦中にある自分を客観視するのは容易なことではありません。普通ならば動揺が先になってしまって、「俳句どころではない」というのが一般的だからです。俳人の多くはずっと以前から、この容易ならざる局面に背をむけることなく、俳句を詠んできました。そのいい例が「病床俳句」です。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 正岡子規
百舌ひゞく脂ほとほと失せし身に 相馬遷子
みな、死を間近にした人の俳句ですが、そこに絶叫や悲嘆はありません。むしろ、冷徹なほど己を客観視しているといってもいいでしょう。死に直面したとき、まったく俳句が詠めなくなる人もいれば、最期の最期までうろたえることなく詠み続ける人もいます。どちらがいいというのではなく、俳句は、人によっては、死の淵まで付き合いざるを得ない文芸ということができるかもしれません。言葉を変えて言えば、いったんその人に取り憑いてしまうと、俳句のほうがその人を死の淵まで離さない、もしかしたら、あの世までも付き纏うのが俳句、といえるのかもしれません。小説や詩と違って、短いということが俳句特有のこうした業を可能にしているのでしょう。先ごろお亡くなりになられた短歌の河野裕子さんも死の間際まで詠まれたようですが、その数は俳人のほうが圧倒的に多いはずです。自然賛歌、人間賛歌の文芸である一方、人の死をとことん見てやろうという、凄まじい業の文芸が俳句でもあります。業と付き合うも良し、その辺をさらりとかわして気楽に楽しめるのもまた俳句なのです。(kinuta)