? 俳句は、五七五の器を持っています。これは、俳句の約束事のなかでもっとも大切な条件の一つ。山頭火や尾崎放哉のようにこれにこだわらない人もいるので絶対的なものとは言えないのですが、五七五のこのここちよい韻律なしで、俳句がここまで多くの人に愛される文芸となりえたかどうかは疑問です。
? 五七五の器、たしかに心地よいのですが、これが容れものであるだけにけっこうやっかいなものでもあります。人が衣服を身につけるのと同様でゆったりと着こなしている人もいれば、肥りすぎて窮屈に着こなしている人もいます。衣服ならば、肥れば大きなものに変えればいいのですが、俳句の器は約束事、大きさを変えることはできません。
?膝に来てはしやぎて眠り日焼けの児
星座見つ夜店に亡母との日遥か
また今日も雨空うんざり釣鐘草
? いずれも、窮屈な句ばかり。加えて言葉が途切れ途切れです。なぜ、こんな句ができてしまうのか。五七五に言葉を入れようとするからです。さながら、ジグゾーパズルのように、切れ切れの言葉をはめ込もうとする。これがよくないのです。言葉ははめ込まない。じゃあどうすればいいのか。切りとることです。普通の散文、まっとうな意味の通じる散文を、五七、あるいは七五で切り取って、そこに季語を添える。もちろん切り取る刃物はなまくらであっては何にもなりません。鋭く切りとる。これが大切です。
? 手元に「四季のうた」(長谷川櫂著)という詩歌の鑑賞の本があります。試しにそこの散文からいくつか切りとってみましょう。
?「あっという間に日暮れてしまう」(引用文)
→あつといふ間の日暮かな(切取った形)
→柿干してあつといふ間の日暮かな(俳句へ)
?「人の心のうつろいやすさよ」(引用文)
→心移ろひやすきかな(切取った形)
→白地着て心移ろひやすきかな(俳句へ)
?「夜のうちに打ち上げられた桜貝がちりしいている。」(引用文)
→散り敷いてゐる桜貝(切取った形)
→松風に散り敷いてゐる桜貝(俳句へ)
?「物干台に出て籠から放った雲雀が」(引用文)
→籠から放つ雲雀かな(切取った形)
→耀きへ籠から放つ雲雀かな(俳句へ)
?「群れて泳ぐさまは海中を舞う花びらのよう。」(引用文)
→わたなかを花のごとくに(切取った形)
→わたなかを花のごとくに桜鯛(俳句へ)
? こんな方法で句を作れといっているのではありません。句の基本は美しい散文にあるということです。まず、すっきりとした正確な散文(日本語)ありき。それを鋭利に切りとって、季語を添える。これが、取り合わせの俳句です。
? くれぐれも五七五に言葉をはめこまない。(kinuta)