雑感

季語は、感性の申し合わせです。どのような季語も感性の公約数をいくつか持っています。
たとえば「松茸」、この季語の懐に入ると、いくつかの関連した言葉が見えてきます。香り、高価、外国産、七厘、丹波、などなど。なかでも「香り」は最大公約数とも言える共通の感性でしょう。言葉を変えていえば、「松茸」という季語は、最初から「香り」を放っているといえます。最初から「香り」を放っているわけですから、松茸を詠むときに、さらに「香り」に触れることはたいていの場合ただごとになってしまいます。
七輪の上で松茸香を放つ
香の高き丹波松茸いただきぬ
どちらも私が作った句ですが、何がいけないのかもうお気づきでしょう。「松茸」という季語が最初から持っていて誰もが了解している属性を、句に詠み込んではだめということです。
もちろん例外もあります。たとえば、「天花粉」。これは「子供」とワンセットのようなもので、「子」が入らないと句にしにくいところもあります。ですが、たいていの場合、この公約数を避けながら句を詠むほうが無難でしょう。最初のうちは、最大公約数はだめと思って句を作るほうがいいでしょう。
思いつく季語とその公約数をいくつか。
虫-闇
夜長-読書
湯豆腐-昆布だし
風鈴-風
白玉‐母
稲妻-闇
などなど
芭蕉の頃は公約数でなかったものが、多くの人が句を読んでいるうちに、いつの間にかその季語の属性として定着する、それが俳句の宿命かもしれません。新しすぎてもだめ。かといって先人が繰り返し詠んだ事柄も避けるべき。どう隘路を切り開いていけばいいのか。——-
公約数を詠んでは失敗することが多いという話でした。(m)
